ようこそお越しくださいました。お葬式の裏舞台、わからない事だらけの業界で、日々 奮闘するスタッフ達のブログです。これも何かのご縁です、ゆっくりしていってください。

お葬式日記

床の間

室町時代―。
僧家において壁に仏画を掛け、その前に押板を置き、その上に花と燭台と香炉を飾り、礼拝をしていました。その押板を床といい、それが次第に変化して作りつけになったものが床の間のもとの姿でした。

つまり床の間はお仏壇の遺風であるといわれています。

床の間が物置代わりや埃が溜まっていませんか?

本来は仏様がおられるところです。

N.Y

道場

剣道や柔道など武道の道を極める場所が道場のイメージですね。
実は道場は本来お釈迦さまが悟りを開いた場所を意味します。仏教では「道」は悟りのことです。お釈迦さまが悟りを得た「場」ということで道場なのです。つまりブッダガヤの菩提樹下の金剛座が道場なのです。
それがやがて場所はどこでも「悟りを開く場所」が道場になり、さらに一般に「修行をする場所」が道場となっていきました。
初期の浄土真宗では信者が集まって念仏を称えるところを「念仏道場」と呼んでいました。
道場へ通う時は技術だけではなく精神をも修養していきたいものです。

N.Y

しょっちゅう

いつも、常に、終始というときに「しょっちゅう」という言葉を使います。

お釈迦さまが説法を始められて、60人の弟子ができたときのことです。彼らを集めて「初め善く、中ごろも善く、終わりも善く、道理と表現を兼ね具えた法を説け」と諭されました。

この「初中終(しょちゅうじゅう)」が訛って「しょっちゅう」となりました。

しょっちゅう善く。
常に善いこと素晴らしいことです。

「しょっちゅう」という言葉は善いときに使うのがいいですね。

N.Y

退屈

退屈とは何もすることがなく、暇を持て余すことを意味します。
普段使われている言葉ですが、もともとは仏教語で、仏道修行の苦しさに屈して仏道を求める心が退き、精進努力する心を失うことを意味しました。
現在の諦めるという言葉に合いますでしょうか。
現在使われている意味とは随分違いますね。

普段から退屈することをせずに精進して参ります。

N.Y

諦める

断念することを「あきらめる」といいます。

お釈迦様は悟りを開かれた後、ベナレスのミガダーヤで5人の友人たちに「初転法輪-しょてんぽうりん-」と呼ばれる初めての法を説かれました。その説法の内容が「四諦」の教えでした。

諦とは「まこと」とか「真理」という意味で、動詞として読むときには「あきらめる」、すなわち「明らかに真実を見る」という意味なのです。

お釈迦様はその悟りの内容を「苦諦-くたい-」・「集諦-じったい-」・「滅諦-めったい-」・「道諦-どうたい-」の四つの真理に分けて教え、それを見ることによって真理を知ることができると説かれました。

諦とは真理を悟るという力強い語なのです。

何かを断念する時はどうにもならない時です。その時に潔く諦めて次に進むというのが良いかもしれませんね。

N.Y
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